唯物論研究104号  山本寛インタビュー 要約

これは「抜粋」ではなく「要約」です。原文のとおりであるとは限りません。

7/2現在、途中です。おかしいと思うところがあれば、メールください。

山本寛(通称・ヤマカン)wiki 要望メールフォーム

もしくはコチラ yamakanwiki@gmail.com



p7
・今のアニメ批評には、1人の淀川長治も、1人の蓮實重彦も、1人のおすぎすらいない。
・映画批評を例にとれば、映画をにぎやかす立場、何か映画について語って映画をにぎやかすことことのできる、もっと言うとそれを読んだ人間の足を小屋に運ばせる、入場料を払わせる、まずそれが批評の第一義だと思う。
・アニメの美学的な意義について考えるとともに、ただそれにプラスして、アニメをプロモートする、アニメをアジテートする、そういう立場の人間がそろそろ出てこないと、単にアニメを作るだけでは売れない時代になっている。アニメをプロモートして、宣伝して、ようやくそのアニメが人の目にふれて、ああじゃあ DVD買ってみようかなと。お金にならないと。
・過去に書いていたWEB版妄想ノオトでは、あえてエキセントリックで乱暴な言い回しを使った。そうでもしないと、アニメ業界関係者やその他大勢に響かないから。たとえ、ドン・キホーテだとしても、ビッグマウス野郎といわれても、構わないと思っている。映画評論における「おすぎ」にもなれないだろうけど、当時、せめて井筒和幸や松本人志くらいの批評的役割は果たせるだろうと思って書いていた。
・自分は異端なことをしているとは思っていない。宮ア駿や庵野秀明や富野由悠季や押井守も、アニメを案じ憂いて、かつては、一見大人げなかったり、痴話喧嘩とも見れるような過激な発言を行うことによって、アニメ業界の刺激につながってきた。お互いに刺激を与えあう、それが多少エキセントリックな言葉であっても、むしろそちらの方が何らかの化学反応に結びつくのではないかと思っている。
・アニメとは何かと難しい話をする以前に、アニメをどうやったら面白く語れるかについて考えたほうがいい。かつて蓮實重彦が言ったように「自分が評を書けば客の入りが変わる」くらいの批評を書くことが使命だと思っている。そういう語り口から考えていく必要がある。多少、言葉を汚くしようとも、エキセントリックな筆致になろうとも「自分が泥をかぶるんだ、自分がヒール役をやってもいいんだ」と、それくらいの意気込みを持たないと、今、ユーザー層に届く言葉は発信できない。
・批評の語り口に毒をもっといれないと、誰も読んでくれない。刺激にならない。そうなれば心に届かない。記憶に残らない。アニメに対してフィードバックされない。故に、アニメをいかに語るかを考えることが、現在のアニメ批評の大きな課題の一つ。

・『新世紀エヴァンゲリオン』は、日本のアニメーションにおけるヌーヴェル・ヴァーグだと思う。きっと、エヴァ製作以前に「もうこれでアニメは終わったんだ、僕たちはもうアニメを作ることはできない、でもそこから始めなきゃいけない、自分たちはコピー世代なんだ」と自覚し、まさにゴダールと同じようなところからスタートして、必死にもがいて、庵野秀明はエヴァを作ったのだと思う。
・エヴァ製作以前の3、4年間、庵野秀明はあっちこっちでアニメについて語り続けていた。アニメにはもう何もないんだ、でも何かしなければいけないんだと。時には過激な議論もふまえながら語り続けたところが、ゴダールやトリフォーのやっていたことと符号していると思った。だから、エヴァが登場したとき「あ、ここでヌーヴェル・ヴァーグが始まるんだ」「ぼくらはその下の世代になるんだ」と確信させられた。ヌーヴェル・ヴァーグの後の世代なのだから、さしずめ「ニューシネマ世代」――じゃあ俺は、ヴィム・ヴェンダースなのか(笑)などと思いながら、今までやってきた。

・庵野秀明は、ゴダールの言う「自分にとっては映画を語ることと映画を撮ることは一緒だ」ということを、まさに実践していたと思う。
・エヴァ以前の段階で、行き着くところまで行ってしまっていたアニメ表現というものに対して、かつてのルネサンスやヌーヴェル・ヴァーグのように「もう1度古典に戻ろう」「ああ、もう俺たちはやられてしまっている」「やられていることをもう1回考え直そう」などと、庵野秀明はがむしゃらに考えたのだと思う。で、それをエヴァで体現してみせた。
・ただ、そのあとに続こうとするアニメ制作会社や人々がほとんどなかったために、大きな流れ――たとえば『カイエ・デュ・シネマ』のような流れが起きなかったのではないか。岡田斗司夫は、先陣を切って旗振り役をできたはずなのに、エヴァの前にGAINAXを辞めてしまった。それこそ、ヌーヴェル・ヴァーグにおけるアンリ・ラングロワのように、政治的なところまで介入してシネマ・テークを守った、ああいう人物になれたはずなんですけども、それを自ら拒否しているように見える。やっぱりアニメは弱いのか。そうは思いたくはないが、映画に比べて人を狂わせる力がなかったのかなという気がする。

p16〜20までハルヒの話。ちょっと要約しにくい。


・日本のアニメーションの歴史において、意図的にヌーヴェル・ヴァーグのようなことを起こそうとしたのは富野由悠季だと思う。作品の中・外に限らずやろうとしていたように見えたが、中途半端に終わったと思う。やはり政治的にどうこうまではいかなかった。やはりアニメでは、なかなか大きな潮流にならないのだろうか? それこそ、庵野秀明と富野由悠季が同じ時代に生きて、同世代的に物を作っていれば、すごいことになっていたかもしれない。
・世代のせいにしたくはないが、アニメがやっと体をなしたのが「学生運動の終わった直後」だったことにも、大きな潮流が起こらなかった原因があると思う。その頃なると「暴力的なイメージでもいいから、何かしら外に向かってエネルギーを発散しようという勢い」が、すっかり沈静化してしまっていた。ゴダールたちのヌーヴェル・ヴァーグには、がむしゃらにあっちこっち騒ごうというエネルギーがあった。でも、日本のアニメブームが始まった頃には、すでに社会は沈静化し――だからこそ、宮ア駿・富野由悠季・押井守・西崎義展などのエネルギーを発散しようとしていた人たちが、いまいちリンクできず、相乗効果も生まれず、アニメーションに大きな潮流が起こらなかったのではないか。
・日本のアニメーションは、先細っている。アニメは、まだ世間を騒がせるような大暴れをしていない。せいぜいが鷲宮神社でイベントをやって、それが一般紙でとりあげられる程度。過去に『ガンダム祭り』というのもあったが、やっぱり実を結んでいないと思う。
・世界に対して主張する瞬間というものを、まだアニメは持ちえていない。先に述べたように、残念ながらタイミングが合わなかったというのもあるだろう。押井守も富野由悠季も宮ア駿も、語りきれていない、動き切れていない、やり切れていない部分があるんじゃないか。おそらく、彼らは今後も文句を言いながら忸怩たる思いを胸に物を作っていくんだろうし、やがては死んでいくんだろうなと思う。で、それを僕たち後の世代が受け継げるかというと、まだ受け継げるほどの力も勢いもあるようにも思えない。

 

inserted by FC2 system